239年に魏から黄色いハタをもらった卑弥呼。
なぜ黄色いハタなのか??
いくつもの可能性が考えられるらしいです。
可能性を3つみていきましょう♪
ひとつめは・・・
(1)三国時代、魏の国の帝位を、「黄祚(こうそ)」といった。
魏は五行思想で、土徳にあたるとされ、黄は、土の色とされた。
すなわち、「黄」が、魏の国のシンボルカラーであった。
魏は五行思想で、土徳にあたるとされ、黄は、土の色とされた。
すなわち、「黄」が、魏の国のシンボルカラーであった。
邪馬台国は、その南方の狗奴国と対立抗争していたので、
魏は「錦の御旗」的なものとして、「黄幢」を与えたと考える。
『宋史』に、「幢(とう)は、方(くに)の色に随う(したがう)」とある。
なお、漢は火徳で、「赤」が漢の国のシンボルカラーであった。
(2015年5月24日 邪馬台国の会 資料より引用)
→魏のシンボルカラーだから
ふたつめは・・・
(2)「黄」は、天子の服の色であった。
「黄蓋(こうがい)」「黄屋(こうおく)」といえば、天子の車のきぬがさであった。
「黄蓋」は、皇帝の車駕をもさした。
「黄旗(こうき)」は、天子の旗であった。
「黄麾(こうき)」は、天子ののる車の装飾品であった。
『漢書』の顔師古(がんしこ)(唐の学者)の注に、「幢は、麾(き)なり」とある。
「黄傘」も、皇帝の儀杖の一つであった。
「黄鉞(こうえつ)」は、黄金で飾ったまさかりであるが、天子が征伐に出かけるときのしるしとして用いた。
「黄門」は、「宮門」であった。
すなわち、「黄」は、皇帝そのもののシンボルカラーであった。
「黄幢」は、皇帝の権威を示す「錦の御旗」、「威信財」として与えられた。
「黄蓋(こうがい)」「黄屋(こうおく)」といえば、天子の車のきぬがさであった。
「黄蓋」は、皇帝の車駕をもさした。
「黄旗(こうき)」は、天子の旗であった。
「黄麾(こうき)」は、天子ののる車の装飾品であった。
『漢書』の顔師古(がんしこ)(唐の学者)の注に、「幢は、麾(き)なり」とある。
「黄傘」も、皇帝の儀杖の一つであった。
「黄鉞(こうえつ)」は、黄金で飾ったまさかりであるが、天子が征伐に出かけるときのしるしとして用いた。
「黄門」は、「宮門」であった。
すなわち、「黄」は、皇帝そのもののシンボルカラーであった。
「黄幢」は、皇帝の権威を示す「錦の御旗」、「威信財」として与えられた。
(同資料より引用)
→皇帝のシンボルカラーが黄色だから
みっつめは・・・
(3)「黄幢」といえば、古代中国で、軍中において用いられた旗であった。
諸橋轍次編の『大漢和辞典』の「幢」の説明に、「軍の指揮に用いるはた」とある。
『魏志倭人伝』によれば、「黄幢」は、直接的には、女王国の難升米に与えられている。
諸橋轍次編の『大漢和辞典』の「幢」の説明に、「軍の指揮に用いるはた」とある。
『魏志倭人伝』によれば、「黄幢」は、直接的には、女王国の難升米に与えられている。
難升米は、魏から、率善中郎将に任命されていた。
中郎将は、宮殿警備の武官である。
「黄幢」は、将軍旗として与えられたものとして考える。
諸橋轍次編の『大漢和辞典』に「幢将(とうしょう)」の説明に、
「禁衛の軍隊を統べるもの。幢は、百人の部隊をいう」とあり、
「幢主(とうしゅ)」の説明に、「はたがしら」「一軍の司令官」とある。
「黄幢=将軍旗説」は、早稲田大学の教授であった水野祐氏が、『評釈魏志倭人伝』(雄山閣出版刊)のなかでのべている。
(同資料より引用)
→将軍の旗だから
239年に魏から黄色いハタをもらった卑弥呼。
なぜ黄色いハタなのか??
(1)魏のシンボルカラーだから
(2)皇帝のシンボルカラーが黄色だから
(3)将軍の旗だから
さてどれなのでしょうか??
どの可能性も、「ふむふむ、なるほど~」と思う内容ですね。
ん~。
“(1)魏のシンボルカラーだから” かな~。
この謎を解明するには、大陸の歴史の勉強も必要ですね☆